第255回 ヤクルト高田新監督はGMへのつなぎか?

 北海道日本ハムのGM・高田繁氏の東京ヤクルト監督就任が決定的になった。現場の指揮を執るのは20年ぶりだ。  思い出すのが故根本陸夫氏の例だ。根本氏は西武の実質的なGMとして黄金期を築き上げた。その根本氏が福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)の監督に就任した時には驚いた。

第254回  “赤ヘル”一筋の偉大なピッチャーだった 広島・佐々岡真司

 それはひとつの時代の終わりを告げる象徴的なシーンだった。  さる10月7日、本拠地・神宮球場で東京ヤクルトの古田敦也兼任監督が現役に別れを告げた。試合後、古田は、まるで優勝監督のように5度も宙を舞った。  対戦相手の広島マーティ・ブラウン監督は、古田の最後の打席で、粋な演出をした。同期入団で、同じく今季限りでユニホームを脱ぐ佐々岡真司をマウンドに送ったのだ。

第108回 反逆のバンク 〜競輪選手・松本整〜

 松本整が“中年の星”と騒がれたのは一昨年のことだ。  7月の寛仁親王牌に続き、9月のオールスター競輪をも制覇した。自らが打ち立てた最年長G1制覇の記録を再び自らの手で塗りかえた。  この時、松本は43歳だった。  この快挙を目のあたりにした“ミスター競輪”中野浩一は言った。 「驚くべきことだ。あの年になってまだ気持ちが切れないなんて……」

第252回 向こう5年も球団の期待を裏切らないだろう マリナーズ・イチロー

 自らのことを「闘う政治家」と言っておきながら、国会の代表質問前に辞任し、病院に逃げ込んだ。これが戦場なら「敵前逃亡」である。安倍晋三前首相のことだ。  旧知の自衛隊OBの軍事評論家が手厳しい口調でこう言った。 「敵前逃亡は、軍隊なら銃殺。ましてリーダーの敵前逃亡なんて聞いたことがない。もっと芯のしっかりした人物だと思っていたが、もうがっかりだ」

第250回 強肩、強打、巧守の「第二の田中」を育ててほしい 日本ハム・田中幸雄

 プロ野球の世界には、いわゆる“当たり年”というものがある。  古くは“江川世代”。高校時代から“怪物”の異名をほしいままにした江川卓を筆頭に、掛布雅之、山倉和博、達川光男、大野豊、袴田英利らがプロ野球でも大活躍した。  近年では“松坂世代”か。

第106回 主将の熱い日々 〜ラグビー選手 箕内拓郎〜

 44日間に渡ってオーストラリアで行われた第5回ラグビーW杯はルーツ国イングランドの優勝で幕を閉じた。5回目のW杯にして初めて、エリス杯が北半球にもたらされた。  決勝の対オーストラリア戦は劇的な幕切れとなった。延長残り1分のところでイングランドSOのウィルキンソンが芸術的なDG(ドロップ・ゴール)を決めた。穏やかな楕円球の軌道が2本のポールの間を通過した瞬間、全ては終わった。歴史に残る100分間の死闘だった。

第296回 「チームは生き物」で成長した日本ハム

 優勝争いをしている最中での日本ハム・トレイ・ヒルマン監督の唐突な退任発表。他の球団なら「サプライズ!」となるところだが、日本ハムは違った。「異例かもしれないけれど、日本ハムじゃあり得ない話じゃない」と大社啓二オーナー。現場レベルも落ち着いたもので動揺の色はほとんど見られない。

第248回 地味を絵に描いたような男の一世一代の大芝居 広島・山崎浩司

 終戦の日、たまたま私は広島市民球場で広島対巨人17回戦をゲスト解説していた。  7回表、1対1と同点の場面。巨人は代打・清水隆行の送りバントが決まり一死二、三塁。  ここで三塁ベースコーチの伊原春樹は、三塁走者の李承に「敬遠もあるぞ」と告げた。一塁ベースコーチの西岡良洋もボールから目を切っていた。

第247回 二代にわたる名父子選手が日本では生まれない不条理

 ジャイアンツのバリー・ボンズが日本時間8月8日、通算756本塁打を記録し、ハンク・アーロンが保持していたメジャーリーグ通算最多本塁打記録を31年ぶりに更新した。  記念すべきインタビューでボンズは興味深いことを言った。 「父がよく言っていた言葉を思い出した。重心を後ろに乗せろ、と言っていたのをね」

第106回 残り10秒で勝負師失格のハンス・オフトの教訓<後編>

 日本代表監督に就任したオフトが、真っ先に衝突したのがラモスだった。  当時のラモスは選手たちのボス的存在であり、誰からも一目置かれていた。もっといえば不動の10番ラモスを抜きにして、チーム構成など描けないというのが日本サッカーの現実だった。

第246回 「2000本安打」達成日は勝利で飾りたい 広島カープ・前田智徳

 カープの前田智徳が8月12日、プロ野球史上31人目の通算1000打点を達成した。 「2000本安打を達成した方(35人)より(1000打点を達成した方のほうが)少ないので驚いた。ありがとうの気持ちでいっぱいです。チャンスをくれた皆さんに感謝したい」  無口な男が珍しく表情をほころばせて答えた。

第105回 残り10秒で勝負師失格のハンス・オフトの教訓<前編>

 アトランタ五輪でのブラジル撃破、悲願のワールドカップ(フランス大会)初出場、そしてワールドユース選手権準優勝と、目覚しい進歩をとげる日本サッカー。その礎を築いたのは誰か、と問われれば、私は迷うことなくハンス・オフトというオランダ人の名前をあげる。  今じゃ日本サッカーにおける慣用句となっている「アイコンタクト」「トライアングル」「「サポート」「スモール・フィールド」「コンパクト」「タスク」「ピクチャー」といった用語は、いずれもオフトが持ち込んだものだ。

第244回 もはや「真実は墓場まで」長嶋茂雄の監督解任事件

「日本経済新聞」朝刊の名物コラム「私の履歴書」で読売巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄氏の連載が始まったのは7月1日のことだ。  選手、監督時代を通じて劇的なエピソードには事欠かない長嶋氏だが、最大のハイライトシーンは1980年オフの「解任」事件である。

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