中日・落合博満監督の“悪運”には恐れ入る。クライマックスシリーズ負けなしの5連勝で日本シリーズ出場を決めた。リーグ優勝を逃したチームが日本シリーズに出場するのは長いプロ野球の歴史の中で初めてのことだ。
北海道日本ハムのGM・高田繁氏の東京ヤクルト監督就任が決定的になった。現場の指揮を執るのは20年ぶりだ。 思い出すのが故根本陸夫氏の例だ。根本氏は西武の実質的なGMとして黄金期を築き上げた。その根本氏が福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)の監督に就任した時には驚いた。
それはひとつの時代の終わりを告げる象徴的なシーンだった。 さる10月7日、本拠地・神宮球場で東京ヤクルトの古田敦也兼任監督が現役に別れを告げた。試合後、古田は、まるで優勝監督のように5度も宙を舞った。 対戦相手の広島マーティ・ブラウン監督は、古田の最後の打席で、粋な演出をした。同期入団で、同じく今季限りでユニホームを脱ぐ佐々岡真司をマウンドに送ったのだ。
松本整が“中年の星”と騒がれたのは一昨年のことだ。 7月の寛仁親王牌に続き、9月のオールスター競輪をも制覇した。自らが打ち立てた最年長G1制覇の記録を再び自らの手で塗りかえた。 この時、松本は43歳だった。 この快挙を目のあたりにした“ミスター競輪”中野浩一は言った。 「驚くべきことだ。あの年になってまだ気持ちが切れないなんて……」
昨季は勢いに乗ったという面もあったが、今季は横綱相撲での優勝だったな。北海道日本ハムファイターズが球団史上初の2年連続リーグ優勝を達成した。MVPは15勝5敗、防御率1.82(10月2日現在)のダルビッシュ有が確実視されている。
自らのことを「闘う政治家」と言っておきながら、国会の代表質問前に辞任し、病院に逃げ込んだ。これが戦場なら「敵前逃亡」である。安倍晋三前首相のことだ。 旧知の自衛隊OBの軍事評論家が手厳しい口調でこう言った。 「敵前逃亡は、軍隊なら銃殺。ましてリーダーの敵前逃亡なんて聞いたことがない。もっと芯のしっかりした人物だと思っていたが、もうがっかりだ」
「もし日本シリーズがなくなるようなことがあれば、日本プロ野球のレベルは確実に低下する」 プロ野球再編騒動の折、選手会会長の古田敦也は、1リーグ制への流れをこのような言葉で牽制してみせた。
東京ヤクルトの古田敦也選手兼任監督に続き広島の佐々岡真司も今季限りでの引退を発表した。古田と佐々岡は89年のドラフトで指名された同期生である。
「田尾(安志)や牛島(和彦)のような1度も指導者としてユニフォームを着たことがない者を理論派と呼ぶのはむずかしい」 かつて楽天・野村克也監督はこう語ったという。
権力の座に固執するとロクなことはない。人間、引き際が大切である。反面教師として、そのことを如実に示したのが、現在「機能性胃腸障害」で入院中の安倍晋三首相である。
プロ野球の世界には、いわゆる“当たり年”というものがある。 古くは“江川世代”。高校時代から“怪物”の異名をほしいままにした江川卓を筆頭に、掛布雅之、山倉和博、達川光男、大野豊、袴田英利らがプロ野球でも大活躍した。 近年では“松坂世代”か。
44日間に渡ってオーストラリアで行われた第5回ラグビーW杯はルーツ国イングランドの優勝で幕を閉じた。5回目のW杯にして初めて、エリス杯が北半球にもたらされた。 決勝の対オーストラリア戦は劇的な幕切れとなった。延長残り1分のところでイングランドSOのウィルキンソンが芸術的なDG(ドロップ・ゴール)を決めた。穏やかな楕円球の軌道が2本のポールの間を通過した瞬間、全ては終わった。歴史に残る100分間の死闘だった。
優勝争いをしている最中での日本ハム・トレイ・ヒルマン監督の唐突な退任発表。他の球団なら「サプライズ!」となるところだが、日本ハムは違った。「異例かもしれないけれど、日本ハムじゃあり得ない話じゃない」と大社啓二オーナー。現場レベルも落ち着いたもので動揺の色はほとんど見られない。
1990年代から2000年代にかけて、日本プロ野球には3人の「天才打者」がいた。イチロー(マリナーズ)と松井秀喜(ヤンキース)、そして1日に球界史上36人目の2000本安打を達成した前田智徳(広島)だ。
終戦の日、たまたま私は広島市民球場で広島対巨人17回戦をゲスト解説していた。 7回表、1対1と同点の場面。巨人は代打・清水隆行の送りバントが決まり一死二、三塁。 ここで三塁ベースコーチの伊原春樹は、三塁走者の李承に「敬遠もあるぞ」と告げた。一塁ベースコーチの西岡良洋もボールから目を切っていた。
28日に開かれた緊急理事会で横綱・朝青龍のモンゴル帰国が決定した。これにより約1カ月間にわたって繰り広げられた朝青龍騒動は新たな局面に入ることになる。
ジャイアンツのバリー・ボンズが日本時間8月8日、通算756本塁打を記録し、ハンク・アーロンが保持していたメジャーリーグ通算最多本塁打記録を31年ぶりに更新した。 記念すべきインタビューでボンズは興味深いことを言った。 「父がよく言っていた言葉を思い出した。重心を後ろに乗せろ、と言っていたのをね」
日本代表監督に就任したオフトが、真っ先に衝突したのがラモスだった。 当時のラモスは選手たちのボス的存在であり、誰からも一目置かれていた。もっといえば不動の10番ラモスを抜きにして、チーム構成など描けないというのが日本サッカーの現実だった。
もし新渡戸稲造が今の時代に生きていて、スタンドからこのプレーを目撃したら、どんな反応を示したことだろう。やはりダメなものはダメというだろうか。
カープの前田智徳が8月12日、プロ野球史上31人目の通算1000打点を達成した。 「2000本安打を達成した方(35人)より(1000打点を達成した方のほうが)少ないので驚いた。ありがとうの気持ちでいっぱいです。チャンスをくれた皆さんに感謝したい」 無口な男が珍しく表情をほころばせて答えた。
44歳の工藤公康(横浜)が7月24日、古巣の巨人から勝ち星をあげ、プロ野球6人目の全球団勝利を達成した。 その工藤よりも一足先に全球団勝利を達成していたのが42歳の吉井理人(千葉ロッテ)である。
アトランタ五輪でのブラジル撃破、悲願のワールドカップ(フランス大会)初出場、そしてワールドユース選手権準優勝と、目覚しい進歩をとげる日本サッカー。その礎を築いたのは誰か、と問われれば、私は迷うことなくハンス・オフトというオランダ人の名前をあげる。 今じゃ日本サッカーにおける慣用句となっている「アイコンタクト」「トライアングル」「「サポート」「スモール・フィールド」「コンパクト」「タスク」「ピクチャー」といった用語は、いずれもオフトが持ち込んだものだ。
「日本経済新聞」朝刊の名物コラム「私の履歴書」で読売巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄氏の連載が始まったのは7月1日のことだ。 選手、監督時代を通じて劇的なエピソードには事欠かない長嶋氏だが、最大のハイライトシーンは1980年オフの「解任」事件である。
「私と小沢さん、どちらが総理にふさわしいか、国民の考えをうかがう」。自らの信任を問う素晴らしい決意表明に映った。参院選での結果は与党惨敗。直後の会見。「国民に約束した新しい国づくりに向けて、改革を続行していくことが、私に課せられた使命だ」
レッドソックスの松坂大輔には及ばないが、移籍金2600万ドル(約30億円)、年俸総額2千万ドル(約23億6千万円=5年)ながら7月17日(現地時間)現在、10試合に登板して2勝2敗、防御率6.97。ヤンキースの井川慶が苦しんでいる。