第1158回 カネのアリと野心の猪木 格闘技世紀の一戦

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 来週の水曜日は「世界格闘技の日」である。今から48年前の1976年6月26日、「格闘技世界一決定戦」と銘打ち、東京・日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木とプロボクシングの現役世界統一ヘビー級王者モハメド・アリが戦い、引き分けた。2016年に「日本記念日協会」が、この戦いの意義を認め「世界格闘技の日」に制定した。

 

 当時、私は高校2年生。土曜日の午後、学校近くの電器店に駆け込むと、既に黒山の人だかりができていた。3分15ラウンド、猪木はほとんど背中をキャンバスにつけたまま、アリのヒザ裏をキックで狙った。一方のアリは、ひたすらリングを逃げ回り、時折ガードを解いては猪木を挑発した。捕まえれば猪木、一発当たればアリ。見せ場のなさが真剣勝負の証だった。

 

 そもそも、この規格外の一戦は、誰が思いつき、どうやって実現したのか。

 

 事の発端は1975年3月、米国のパーティーでアリが発した一言。「オレに挑戦してくる東洋人のファイターはいないか? オレに勝ったら100万ドルくれてやる」。それを聞いていたのが日本アマレス協会会長の八田一朗。100万ドルと言えば、当時の円ドルレートで3億円。大層な報酬である。

 

 この7年前、日本中を震撼させる事件が起きた。東京都府中市を舞台にした「3億円事件」だ。時効が成立したのが75年12月。時効直前には数多くの情報が当局や報道機関に寄せられ、人々は「3億円」という言葉に敏感になっていた。

 

<やれるやれないは別にして、ここは一発、東洋にも勇気と力のある男がいるぞということをアリに思い知らせておく必要があると思った>(『論証アントニオ猪木』日本スポーツ出版社)。猪木は100万ドルに900万ドルを加えた1000万ドルの賞金を出すと明言し、アリを追い詰めていく。

 

 アリはカネを必要としていた。結婚と離婚、不貞を繰り返し、莫大な慰謝料を請求されていた。それが本業にも悪影響を及ぼし、76年4月に行なわれたジミー・ヤング戦は著しく精彩を欠いた。

 

 同年9月には、ケン・ノートンとの3度目の対戦を控えていた。最初の対決ではアゴを砕かれている。再戦で判定勝ちしたものの、それも僅差。そんな強敵との防衛戦の3カ月前に、なぜ東京で風変わりな試合を行う必要があるのか。<本当は引退したいんだ。でも、一〇〇〇万ドル出すと言われたら、なかなか簡単じゃないよ>(『評伝モハメド・アリ』ジョナサン・アイグ著・岩波書店)

 

 しかし、と思う。動機が不純だからといって、試合も粗悪なものになるとは限らない。その逆もある。いや格闘技の場合、結果はしばしばその逆になる。アリがカネなら、猪木は野心から、この世紀の一戦はスタートした。あれから半世紀近く経っても世間の口の端に上るのは、アリvs猪木戦が奇抜にして珠玉、そして唯一無二だからである。

 

<この原稿は24年6月19日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>

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